紀行エッセイ「バスターミナル」
第一章 ワンパターンからの脱出
 
第一話 焦り
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 クはパタゴニアの元気のない昼過ぎの空をながめていた。
 枕にしているバックパックは、ひと月半前まで日本のきれいなスポーツ用品店に並んでい たとはとうてい思えない程うす汚れていた。ペルーやボリビアの過酷な自然をともに乗り越え て、いまアルゼンチンにいるのだ。ボクもかなり疲れていた。
 
 ここ、パタゴニアの玄関口ともいうべきコモドロリバダビアに到着したのは朝の7時。リオガ リェーゴス行バスの乗り継ぎは13時間後だ。午前中はひととおり町を散策してみたけれど 特にこれといった見所はない。とうとう町はずれの浜辺にやってきて、何をするわけでもなく ただ寝そべった。
 
 浜辺は白くてきれいな小石が敷き詰められたようになっている。ちょっと背中がごつごつす るけれど、無造作においたてのひらに伝わるひんやりとした感触は悪くなかった。
 
 生まれて初めて見た大西洋は白みがかった青色で穏やかだった。11月に入りパタゴニア は春を迎えるにもかかわらず、相変わらず元気のない空では、直視できるくらいやはり元気 のない太陽が雲間に出入りしている。やさしげな波の音に包まれて目を閉じると、すこしまど ろむことができた。
 A   
 3、4年前だったかな。清澤、田上と男3人で湘南の海に繰り出したっけ。女っ気がまったく なくてナンパなんかできないくらいシャイな男3人が、何も考えず海ではしゃいだんだった。 「見ろっ、サマーソルトだっ」なんて波打ち際で宙返りしたり。あぁ、恥ずかしい。
 
 「ひひっ。」
 
 おっとあぶないあぶない。思い出し笑いをしてしまった。我ながら気持ちわるい。ただでさえ ぶしょうひげを生やし黒々と日焼けした小汚い東洋人が浜辺で大の字になっているんだ。い つ連行されても文句は言えない有様だけど、うん。やっぱり人っ子1人、いないなぁ。
 
 みんな大学を卒業して社会に出ていった。清澤は中型トラックを乗り回して配送をしており マッチョに磨きがかかっていた。日焼けも相まってあだ名の通りゴリラ化まっしぐらだ。法律を 勉強していた田上はいつの間にかプログラマーになっていた。こまごましたことが好きなヤツ だ。今はコンピューター言語なるものに悪戦苦闘しているらしい。
 
 ボクは就職活動をしていなかった。大学2年生のときから税理士の受験勉強を始めていた からだ。税理士の受験は厳しいもので、ボクくらいの世代で税理士を目指した連中にとって は就職前に合格を決めるか否かでだいぶ人生設計が変わってくるものだ。大学4年生のと きにはすでに3科目を取得していた。そしてこの旅を始める直前、大学卒業のその年に残り の2科目を受験したのである。
 
 ボクは筆圧で短く変形した右手の人差し指をぼーっとながめていた。  

  B  
 「終わった…」ボクは心の中でつぶやいた。試験の手応えは感じられなかった。その心の つぶやきはただ事実を認識したのにすぎないものだった。
 
 受験会場の早稲田大学は税理士を目指す老若男女にあふれかえっていた。杖をついた老 人もいるし、買い物帰りのような中年女性もいる。
 
 「試験お疲れ様でしたー。TECの解答速報です。」
 「資格の小原です。早期割引キャンペーン中です。」
 
 校門を出ると専門学校のアルバイトたちが大汗をかきながら歩道わきで広告活動を行って いる。そんな人間アーチをくぐりながら帰路につくのは今回で3度目だ。もう見慣れていた。
 
 8月の蝉の声が熱をおびたアスファルトにしみ込んでいく。慣れない虚無感を感じながら、 応援してくれた友だちや家族にメールを打った。
   C 
 浮足立った気分になったのは翌日からだった。ボクにとってこの気分は想定外だった。受 験そのものに執着し過ぎるあまり、受験のための受験をしていたのである。
 
 バイタリティはあるほうだった。だが思慮が浅い。何のため、なぜ、という思考回路は単純 すぎるボクのおつむには備わっていなかった。目標がなくなったいま、将来のビジョンが見え ていない自分に焦りを感じていた。
 
 税理士試験は8月に実施され合否は12月に発表される。そしていままでなら大学に通っ て授業を受けながら、来年受験予定の科目の勉強に取り掛かる。だけど受験はこの8月が 最後だ。落ちることを前提にしていなかった。それはボクのちっぽけなプライドだった。
 
 さて、12月まで何をしようか。ボクは何も考えていなかった。いや、しいて言えばバイトでも しながらのんびり休憩しようと考えていた。就職は12月の合格発表を受け年明け早々にす れば良いのだ。そう思っていた矢先の焦りは、あまりに想定外だった。
 
 不安や焦りを感じているとき、どうしても親しい人にぼやいてしまうのが人の弱さだ。甘え なのかもしれない。ボクは弱かった。
    D
 「試験お疲れ。いま何してんだ、おまえ?」と清澤が言った。何かを意図している問いでは なかった。
 
 「いま…、何、しているんだろうな」と、やや自嘲的にボクは返した。
 
 「いままでさ、頑張ってきたんじゃん。ちょっと休憩しておきなよ」なんて、田上が流す方向 へ話題を持っていく。
 
 「しっかり休んでいるよ。というか暇すぎて気が狂いそうだ、ははは。」
 
 友だちにぼやいた。半分はかっこつけていた。ぼやくといってもボク自身なにをもとめている のかもわからないのだ。ボクはどうぼやいても癒されることのない焦りに困惑した。弱さを見 せながら強がっている時点で支離滅裂なのは、だれの目から見てもあきらかだ。
 
 なんでこうも苦しむのかわからなかった。予定通りアルバイトしながらのんびり結果をまって 来年早々に就職すればいいのに。でもそれがどうしてもできない。つまり、かっこつけで、ふ つうを嫌がる、けっこう面倒くさい子だ。
第一話 焦り@
パタゴニア…チリとアルゼンチンにまたがる南米大陸の 南端の地域の総称。
バックパック…登山用の大型リュックサック。
 
 
リオガリェーゴス…パタゴニアからマゼラン海峡を渡って さらに南へ行くための経由地。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第一話 焦りA
 
 
サマーソルト…後方宙返りのこと。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
税理士…国家資格のひとつ。毎年一回8月に各科目の 試験が全国一斉に行われる。1科目あたりの合格率は 10%前後。合格科目が5科目に達すれば有資格者と なる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第一話 焦りB
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第一話 焦りC
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第一話 焦りD
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第二話 きっかけと決断
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 にぼやいたときのことである。
 「どっか行ってくれば?」何気ない母のひと言だった。
 
 どっか。どこ。行きたいところ…。エンジェルフォール。0.1秒、一直線の思考回路だった。 遅いのか早いのかわからない。だけどみるみるボクの目がうるおい、ひかりだした。
 
 ボクは社会デビューとか将来ビジョンとかそういった憂いをきれいさっぱり忘れ去っていた。 当然のなりゆきだった。そもそも友だちと比べて出遅れている自分にうしろめたさを感じてく すぶっていたわけではなかったのだ。単純にくすぶりの原因をその出遅れのせいにすれば かっこ悪くないと思っていただけなのだから。
 A   
 死ぬまでに見たいものがあった。10年ひとむかし前、それは中学1年生の英語のテキスト の課題文にあった。エンジェルという探検家が南米ギアナ高地をセスナ飛行していると、水 の流れが目線に入り不思議に思う。見ると信じられないことにセスナのはるか上空の雲間 から滝が現われたのだという。
 
 エンジェルフォール。東京タワー3つ分もある世界最高落差の滝だ。そのテキストはいかに もテキストらしく、簡単なさし絵が余白に描かれているだけである。まだなじめない英単語を つなげ読みして、ボクはいまだかつてない想像の世界に旅立っていた。どんな詳細な状況 描写をする小説でも、これにまさる想像力は駆り立てられなかった。ずっとインスピレーション が多感な少年の心にあふれていた。授業が終わっても、一晩寝てもそして10年たった今で も…。13歳のボクはまだ素直だった。

  B  
 なにか行動するときはモチベーションと決断が必要になるものだ。そしてモチベーションな んて「やりたい。以上。」で充分だった。いっぽう決断はそう簡単ではなかった。環境だったり 資本的なものだったりいろんな壁がある。モチベーションが中の問題だとすると決断は外の 問題と言えた。
 
 ボクは社会人でも大学生でもなかった。ましてや税理士の受験生も終わったいま、独身フ リーターもいいところだ。そうなるとお金の問題だけだ。
 
 「どっか行ってくれば?」
 
 一息つく程度の間があった。ボクと母の間に流れていた時間はとてつもなく長く感じられ た。その間に母はサイコロのように移り変わるボクの表情を見ていた。はっと気付いた表情、 希望にあふれる恍惚の表情、状況判断をするまじめな表情そして問題をみつけちゅうちょす る表情だった。
 
 人から見ればたてつづけに言われた言葉かもしれない。母の口から次いで言葉が出てき た。
 
 「100万円までなら貸すよ。あげるんじゃなく貸しだから、好きに使いなさい。」
 「えっ…。」
   C 
 この家のどこにそんな金があったのだろうか。だが、それよりも驚いたのは使途も指定せず これを存分に運用しろという器の大きさだった。一瞬の間があく。ボクはある種の覚悟のよう なものを呼吸とともに飲み込んでから、真摯に提案を受けた。
 
 本当は怖かった。今まで手にしたお金の最高額はバイトで稼いだ7万円が関の山だ。もち ろん金額的な怖さもあるが、それ以上に責任感というか使命感というか重たくて厳しいもの の怖さがある。それゆえに真摯にもなることができた。返済期限は指定されなかったけれど 受けたと同時に、帰国後就職したら1年以内に返済する決意をした。
 
 考えてみれば会社と似たような感覚かもしれない。会社は株主というオーナーから預かっ た資本金を運用して事業をおこない、利益を配当としてかえす。その資本金には責任がつき まとう。資本金の責任と明らかに違うのは、利益が母のためではなく自分のためという点だ った。
    D
 寒くなってきた。けだるさの中、一重のうす目をゆっくりあけるとよわよわしい光が目をぐりり と圧迫する。パタゴニアの元気のない太陽だった。仰向けのまま左手を垂直にかざしてみ た。さっきまどろみはじめてからまだおや指の先くらいしか、太陽は動いていなかった。
 
 時計を見るとリオガリェーゴス行のバスが来るまでまだ8時間もある。ボクは上体をおこし て大あくびを一発した。次いで座ったまま上体を左右に思い切りひねる。
 
 「ぐききっ、ぶききっ。」
 
 ボクにしか聞こえない小気味のよい音が体内に響く。ひねりながら周囲を見まわし誰かに 怪しまれていないことを確認すると、背中の小石を並び替え、再び寝転がった。
第二話 きっかけと決断@
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第二話 きっかけと決断A
 
ギアナ高地…ベネズエラにある景勝地。ゴンドワナ大陸 時代に隆起した台形状の山々が連なる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第二話 きっかけと決断B
モチベーション…動機、やる気。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第二話 きっかけと決断C
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第二話 きっかけと決断D
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第三話 旅立ち
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 が冷たい。太陽がまた雲にかくれてしまった。
 大西洋は相変わらず穏やかだけど、浜辺に吹く風の冷たさが何となくさびしかった。
 
 「みんな働いているんだろうな…。」
 
 アルゼンチンは日本より12時間遅れている。いまごろ日本は真夜中で寝静まっている が、そういうことを言いたいのではない。
 
 「あの智彦も、仕事始めか…。」
 
 智彦とボクは仲がよかった。ちょっと動きがゆったりしていてはたから見るとトッポイとか思 われるような男だ。いつもニコニコして人当たりがいい。身長が180センチくらいあったが、あ まりにも童顔だったため、独特のゆるい雰囲気を醸し出していた。老若男問わず好かれた。
 
 激情家で落ち着きのないボクとは正反対のタイプだったけれど仲はなぜか良い。ボクは智 彦をあるときは気の置けないヤツとして、そしてあるときは頼りない弟分として好いていた。 だけど智彦は心の広さでボクを受け入れていた。
 
 智彦はボクと同じように就職活動をしていなかった。国家公務員二種の試験を卒業の夏に 控えていたからだ。だが彼の場合はそうそうに結果を出し、就職を決めてしまっていた。智彦 のことを心のどこかで頼りない弟分と見なしていたボクは、よけいに自分の体たらくを小さな プライドで責めていた。
 
 同時に、いま旅も折り返しにきてやっとこの環境を振り返ることができている。好き勝手し ているのではなく、させてもらっているというこの環境をである。
 A 
 「南米に、行ってくる。」
 
 直感的に母には伝えなければならないと思った。だけど、母の反応は意外なほどひやや かだった。ボクはてっきり選択の理由、情勢、連絡手段や病気の問題などアレコレ確認して くるものかと思っていた。そう構えて準備もしていた。いくつもある「どっか」から、よりにもよっ て地球のうらっかわ、英語もそんなに通用しない南米を選んだのに。
 
 「お好きに。」
 
 直感的で理屈を嫌う母らしい反応であった。おそらくボクを尊重してくれているのだろう。 「危ないからやめなさい」なんて、漠然とした母自身の不安を和らげるためだけにボクを止め たりはしない。それに母は、不安だから行っていいものか相談したい、というスタンスでボク が話を持ちかけたわけではないことを知っていた。
 
 母親が特に息子について働かせる直観はすごい。ボクに初めて彼女ができた時も感づか れた。その当時のボクにとっては母のニヤニヤした表情がとてつもなくうっとうしいものだった のだが。
 
 そんなだから、ボクのちっぽけでくだらないプライドや自己実現できないもどかしさも、言葉 にだすほどはっきりではないが見透かされていたことだろう。むしろ空気のようにただあると いう認識を当たり前のように持っていたはずだ。
  B

 旅立ちの日、家族は仕事に学校と日常生活を営んでいた。平日の朝だ。ボクはいつものよ うに市営バスにのって横浜駅に向かった。運賃は大人210円だった。

 いつもと違うのは背にのしかかるバックパックの重みだけだ。運転手はちらりとボクの背を 見たがすぐに視線をミラーに移し、そして仕事に戻った。

 「発車します。」

 ぷしゅっと油圧扉が音を立てしまると、いつものルートをバスは進んだ。運転手の一日は、 今日も路線バスの行路のように脱線することなく進んでいった。
第三話 旅立ち@
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第三話 旅立ちA
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第三話 旅立ちB
 
 
 
 紀行エッセイ「バスターミナル」