第二話 体験パラグアイ |
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緑が、グダグダのアスファルトの切れ目のぬかるんだ赤土にところせましと育つ。
泥くさい。というより臭い。そしてどこからともなく食べ物の匂いがした。
公共の建物はどれも西洋建築だ。だけど、風化が進んでズタボロである。開かずの窓か、
ガラスがないかのどっちかである。この辺りはウルグアイと同じ具合なのだけれど、大きな違
いが1つ、人が多いのだ。ウルグアイと同じ「グアイ」なのだけれど、まったく違った。
路上ではうす汚れた格好のオヤジたちが、まっぴるまからドラム缶テーブルを囲みゲーム
に興じる。ハダシの少年が靴墨とブラシを片手に、穴だらけのスニーカーを履いたボクじっと
見つめていた。やってきたのはパラグアイの首都アスンシオン。ここは、そんなところだ。バッ
クパックを背負って呼吸をするたびに、熱気と湿気にむせかえりそうになる。
バスターミナルに客引きはいない。タクシーが列を作って客待ちをしているくらいだ。首都に
はこれといって見所がない。でも、ボクはすぐにこの国の魅力に取りつかれることになる。そ
の魅力とはもちろん人々の多くが原住民系の有色人種であることや、豊かな土壌の青臭
さ、食べ物やゴミのナマ臭さによるものではない。決して経済的には豊かとはいえず、また
社会設備や仕事において充実しているともいえない。
だけど、ここに住む人々の息遣いがまさに耳元で聞こえてくるくらい、街は活気に満ちあふ
れているのだ。その活気に潜む混沌とした影は、ペルーの首都リマやボリビアの首都ラパス
のようにあからさまには感じられない。むしろ、あけっぴろげという印象を受けた。
「楽しい匂いがする…。」
ふつふつと沸き起こり、抑えきれないこのワクワク感にボクは心躍りはじめていた。
このアスンシオンには少なからず日系企業や日系官庁がある。そうしたジャパニーズビジ
ネスマンが愛用するのが「ホテル内山田」という日系ホテルだ。パラグアイにありながらも設
備は日本のビジネスホテル並みに充実している。驚くなかれ「氷」がなんとタダでもらえてし
まうのだ。
この氷には思わぬ使い道があった。
バックパッカー向けに1泊10ドルの部屋も用意されていた。でもインターネットや朝食バイ
キングがスーツ姿の日系サラリーマンに混じって活用できてしまう。このホテルを拠点にパラ
グアイの匂いを存分に嗅いでおこう、とボクは息巻いた。
■ A ■ ■ ■
ここにきて、荷物はすでにパンパンに膨れ上がっている。思えばお土産と称してくだらない
ものをたくさん買ってきた。ショッピング自体は楽しいものだけれど、後ろめたさを正当化する
ために「お土産」という言葉をよくまぁ使ってきたものだ。
なかでも、もっとも邪魔になっていたのはマテ茶セットだった。バスターミナル、観光地、駅
などのどこに行っても、お湯の入った魔法ビンを持った人を見かけた。日本人のタバコに近い
頻度である。これはもう、いらない。パタゴニアも乗り切ったし、防寒具も送ってしまおう。
郵便局に来たついでにエクアドルに充てて手紙を送った。10日間ホームステイさせてもら
った学校の先生との約束で、訪れた国から必ず手紙を送ることになっていた。この約束は今
のところ破られていない。これで…、7通目。
郵送料はしめて46ドルだ。食堂での1食が1ドルに満たないのだから、我ながら随分と思
いきった。身軽になると、暑さも楽になるものだ。バスターミナルのインフォメーションで聞い
ていたスラム街まで足を延ばす。アスンシオンを流れるバヒア川沿いの一帯には、低所得層
が住んでいるのだ。
もちろん、物見遊山の気分で立ち入りはしない。それに、命の保証もない。遠くからそのエ
リアをのぞくだけなのだが…、その光景はボクにとって鮮烈なインパクトを与えるものだった
…。

「えーいっ!アハハハ…。」
「ヒョゥッ、バササッ…。」
れっきとした由緒正しい教科書どおりのスラム街では、全裸の子どもが路上に遊び、川か
ら汚水臭い風が吹けば洗濯物がはためいた。ここ、南米大陸ではスラム街なんていくらも見
てきた。だけどここは一般街とスラム街の隔たりが、たった1本の小道だった。この道を5歩
またげば、一瞬にして世界が変わる。
「おなじ人間が同じ街に住んでいるのに…。」
センチメンタルな気分に浸るなんて、ボクにしては珍しい。しかし、ラインのない国で育った
ぼくにとっては、まったく想像もできないくっきりとしたライン。目の前にこうまでアリアリと見
せつけられると、モヤモヤしたものがハッキリとひんむかれる気がして、やはり衝撃を受ける
ものである。
■ ■ B ■ ■
セントロを歩いていると、女性たちが、地べたに座り、カラフルなアクセサリーや小物入れな
どを広げていた。おばちゃんたちは無愛想で、せっせと商品をこしらえていた。

いままで南米大陸で見てきた原住民と明らかに人種の異なる人々であった。高山地帯の
インディヘナより、こちらは少し肌の色が濃くて平べったい鼻が特徴的である。モンゴロイド系
とも、アフリカ系とも違う。
街を歩いているとお土産物屋の軒先に、趣味の悪い等身大の木彫りの人形が飾られてい
るのを見かけた。茶色のニスを塗ったくり、両手足に鉄製の枷をはめられていて、首を本物
の鎖でぐるぐる巻きにされて、…そしてコミカルに思えるくらいわかりやすい泣き顔をしてい
た。
その鼻の形は、さっき路上販売をしていたおばちゃんたちと同じように平べったい。
ここからアマゾンにかけての一帯、グアラニー族という原住民が住んでいた。新大陸入植
時代に捕獲され、大勢が奴隷としてブラジルに強制連行されたという。入植者にとって、彼ら
は人間ではなかった。
首に鎖が巻かれていた…、けれど顔を見れば「ボクらはとても悲しかったんだよ」と訴える。
泣いているのだ、その木彫りの人形は。コミカルなくらいわかりやすい泣き顔をしていた。
パラグアイの通貨は…、グアラニーである。そのあけっぴろげな開放感に、ボクは自分のう
ちの何かが重たく苦しいものに感じられた気がする。
■ ■ ■ C ■
パラグアイを行く旅人の間では有名な話だけど、ホテル内山田周辺の夜はにぎやかだ。ボ
クは猥雑な雰囲気が嫌いではない、というかむしろ好きだったので、退屈はしなかった。日
が暮れ始めるとどこからともなく道のいたるところに人影ができる。ストリートガールである。
いや、ストリートボーイと言ったほうが正確だろう。アチコチいじっているからなのかどうなの
か真相は分からないけれど、彼らはハッキリ言ってボクがパラグアイで見てきた女性たちの
誰にもまして美しい…。
「はぁーい。ハンサムジャッキーチェン、どこ行くのかしらん?」
「あ、いや。ご、ご飯を食べに…。」
ワクワクしながら振り向けば、背がモデルのように高くて、本当に大美人で可愛らしいコた
ちが流し目をしているのだ。「男の子?」と聞くと「そうだぜ、俺たちは男だ」という。こういう返
事をするときだけ野太い声を出すのはネタになるのだろう…。やはり、予想は付くけれどおど
ろいた。
「ほぅ…、1発6万グアラニー?ふぅん、たっけーなぁ。」
「え、23歳なの?ボクと同い年だ。友だちになれそうですね。」
「なになに、このお仕事は2年目なの?もう、ベテランさんですな。」
「ははっ、いまのお仕事が好きなんだ。しかもムーチョ(超)って言っているし…。」
「なんだってぇっ?パラグアイはこう言う仕事が禁止されていないだって?ホントかよ…。」
なお、1ドルは約6千グアラニーである。
■ ■ ■ ■ D
翌日、バヒア川沿いのスラム街近くを散歩していると、警官に呼び止められた。くちヒゲをた
くわえた優しげな目つきの警官である。ベージュの制服を着ていた。
「旅行かな?悪いがパスポートを見せてほしいんだが…?」
パラグアイには偽警官がウヨウヨいると訊いていた。彼のうしろに停めてある車から、ガラ
の悪い私服の2人組が身を乗り出してこちらを睨んでいた。嫌な予感がした。パスポートは
貴重品と一緒にパンツの内側にぶら下がっているポーチにある。パスポートを出するというこ
とは貴重品のありかを面前にさらすようなものだ。ぼくはちゅうちょしてた。
疑いを察したのか、彼はボクに警察手帳を見せた。確かに彼はホンモノ警官のようだ。だ
けどボクの警戒は解けない。それほどまでにうしろに控えている悪人ヅラの2人組が気にな
るのである。グルという可能性も充分にあった。
「んー、じゃぁさ、警察署に出頭してくるよ。タクシー捜してくるね…。」
「その必要はないぞ。どうしても警察署に行きたいなら、この車に乗りなさい。」
「この車…、パトカーじゃないじゃん!」なんて思いチラと見ると悪人ヅラ2人組がニヤニヤ
笑っていた。「まずい…!」と思った…。「いや、必ず出頭するから、タクシー拾ってくる!」と
言い捨てるとボクはひと気の多い方に足早に歩きだした。すると2人組のうち助手席に座っ
ていたアゴヒゲの太っちょがなんと拳銃の右手に車から飛び出してきたのだ。
「来た…!」と思った矢先にボクは叫びながら人気の多い通りに向かい走りだす。この当た
りの行動は静だ。だけど、むなしくもボクの叫び声は無数のサイレンにかき消され大通りは
一時騒然となった。やがて、ボクの行く手に2台のパトカーが横付けで急停車した。「本物の
警察だったのか…?」と安堵と同時に「ん?これじゃボクは警察から逃走した犯罪者じゃな
いか?」という焦りがわき起こる。
ボクのすぐ後ろにはさっきの悪人ヅラの運転する車が迫った。挟まれた。
「ぐ、あぁ。(観念したボクのうめき声)」
「…!……!!(羽交い絞めにされながら拳銃を頭に突き付けられ罵声を浴びる)」
「ゴッ!ぶしっ!(目の下とほお骨の間から鈍い音が響いた)」
殴られたらしい…、世界が静かになっていた。ただちに手錠がはめられなお殴打される。そ
してお尻を足の裏で蹴飛ばされ、後部座席に文字どおり叩き込まれた。警察署に向かうパト
カーの中でも殴られ続けながら、ボクは必死に怒りを抑えていた。やりすぎだ…、無抵抗な
のに。できればパンチを避けたかったけれど、おとなしく殴られていた方がダメージは少なか
った。避けて逆上されるともっと怖い。
警察署の駐車場に引きずり出されると、今日も快晴の青空が広がっていた。炎天下だ。悪
人ヅラを見ると、笑っていた。うすら笑いを浮かべながら、まだ殴ってくる。「もう、勘弁してく
れ。いてぇ…。」
駆け付けた5、6人の頭の悪そうな警官に取り囲まれると、今度は全裸にされた。かたわら
でボクのナップザックが路上にぶちまけられるのを見ていると、なんともやりきれない気持ち
になってくる。手で前を隠しながら色白で小柄な東洋人は、大人の男たちに囲まれて大いに
笑われた。悔しくて自然と歯ぎしりする。悪人ヅラは手が疲れたようで、ボクのタオルを奪い
取るとムチのように全裸のボクをシバいてきた。
警察署、拘置所、ツーリストオフィスなどを軽トラックの荷台に乗せられ連れまわされた。い
ろいろと注意を受けたけれど、とどのつまり「逃げたから、追いました。」ということだった。疲
弊しながら警察署を出ると、無意識に門を殴っていた。手が痛くなっただけだった。門番が驚
いたようにボクを見ていた。
滞在先のホテル内山田に戻ったらオーナーで日系2世の内山田氏がエントランスで出迎え
てくれていた。ボクの身元引受人をしてくれたらしい。
「大変でしたねぇ、ケガがなくて良かったです。お疲れ様でした。」
「いえ、ありがとうございます。本当にお世話になりまして。偽警官が多いと聞いていたの
でちょっと警戒しすぎていたものですから、かえって変なトラブルにあっちゃったみたいで
…。」
「あぁ、そうですね。確かにいますけど、偽警官は落ち着いて見ればわかりますよ。」
内山田氏は本当に心配していた。
「…今日はもう、お部屋でお休みになりますか?」
「…と、行きたいんですけど、青タン冷やしたらバスターミナルに行きます。まだ次の町へ
のチケットを買っていないので。その足でご飯でも食べてきますよ。」
「そうですか。そうですか。今日は週末だから、セントロの広場で野外コンサートが開かれ
ますよ。よろしければちょっと覗いてみてくださいね。」
ボクは元気よく笑顔で頷きながら「氷を貰いに行ってきますね!」と告げた。内山田氏はホ
ッとした表情をしていた。内山田さんは、旅人をもてなす本物のプロだった。だいじょうぶ、ボ
クはパラグアイを嫌いになったわけでもないし、この国での思い出が嫌なものになったとも思
わない。だいじょうぶ、今こうして楽しみながら文章に綴っているくらいだから…。
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第二話 体験パラグアイ@
アスンシオン…パラグアイの首都でアマゾンの南部、大
陸の内陸部に位置する。どことなくアジア的な熱気があ
るエキゾチックな街。
氷…南米のローカルなところでは氷をお目にかかること
は少ない。もちろん飲料にも基本的には氷は浮かんで
いない。また、現地で氷を口にするのは危険。
バックパッカー…大型リュックを背負う個人旅行者。欧
州圏ではスポーティな旅行スタイルとして定着している
が、日本では貧乏旅行のイメージが強い。
第二話 体験パラグアイA
マテ茶…チリやアルゼンチンの庶民のたしなみ。銀メッ
キのコップに茶葉をすり切りいっぱい入れお湯を注ぎ、
茶漉しの付いた極太の銀のストローをお湯にひたる茶
葉につっこんで飲む。
送る…バックパッカーはよく海外で郵便局を利用し日本
へ不要な品を送る。
バヒア川…アスンシオンを取り囲むように流れるアマゾ
ンのジャングルからの川。
物見遊山…遠足気分。
第二話 体験パラグアイB
セントロ…町の中心、センター。
インディヘナ…アンデス山脈一帯に古くから住むモンゴ
ロイド系の原住民。
グアラニー…パラグアイの多くの人々はグアラニー族の
血を引く。そして彼らはそれを薄めるどころかアイデンテ
ィティを取り戻すがごとく回帰するように努めている。非
常に珍しい民族国家である。
第二話 体験パラグアイC
ストリートガール…立ちんぼ。娼婦。
ジャッキーチェン…親愛の情をこめて東洋人を呼ぶ際に
使われる南米で人気の映画スター。逆に嘲笑をこめて
呼ぶ際はチーノ(中国野郎)。また南米では日本と中国
と韓国の違いを重要視していない。
第二話 体験パラグアイD
偽警官…警官の服を着た泥棒。外国人を呼び止め、職
務質問と称して貴重品を探り抜き取ったりする。悪質な
ものは人気のない所に連行して強盗をしたりする。ただ
し、明らかに怪しいので必ずわかるうえ、相手にしない
で人気の多い所に移動すればすぐにあきらめる。
ツーリストオフィス…外国人旅行者に情報を与える役所
の機関。領事館などの連絡先を教えてくれる。なお、海
外でこうしたトラブルに遭っても在外日本領事館は自由
には助けてくれず、国際問題に発展するような重大な事
件のときにだけ助けてくれることが多いようだ。
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