紀行エッセイ「バスターミナル」
第四章 アジアの屋根わたり
 
第一話 こんなところで欧米か!
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 アクションがやたらに大きい、交渉力があってハイソサイエティ、単純大味な面を好み、 ときにビジネスライクで冷たい……。日本人が抱く欧米人のイメージはそんなところだろう か。『欧米人』、つまり『先進諸国の白人』のイメージである。
 
 ところで。バックパッカーのほとんどが、先進諸国の出身である。ダントツで多いのが日本 とフランスの2か国だ。ドイツ、スイス、カナダ、オーストラリアなども多く、次いでスペイン、イ タリア。香港、韓国も最近は増えてきた。アメリカ人は、まず見かけない。
欧米人バックパッカーの集まる宿
 その中で、有色人種で、英語が苦手な日本は特殊である。バックパッカーの行きそうな発 展途上国にはたいてい『日本人宿』なるものがあり、日本人同士が群れて情報交換などをす る。日本人特有のつながりがあるには違いない。そんな日本人パッカーを偏見で嫌う白人パ ッカーもいるし、その逆もある。
 
 白人パッカーには傾向があった。すなわち、彼らは基本的に貧乏旅行者ではない。彼らの 中でバックパッカーは、スポーティな旅のスタイルの1つに過ぎず、彼らの装備の充実も目を 見張るものがある。そして、白人パッカーはたいていが男女カップルであり、ひとり旅の多い 日本人パッカーとは特徴的に違った。

 彼らは陸路の旅の行程を楽しみ、ときにチャリダーとして冒険旅行を楽しみ、トレッカーとし て山登りを楽しむ。彼らにとって旅は『楽しみ』であり、多くの白人パッカーはファントリップと して目的を明確にしているように見える。日本人パッカーの中には「旅は遊びじゃない」など と熱く語る人もいるが、白人パッカーにしてみれば、単なるロングバケーションにすぎないの だ。

 そうした割り切りの考えには、雇用形態や社会的な風潮が影響しているのだろう。日本と 欧米諸国との決定的な差は、労働時間ではなく、長期休暇や転退職に関する社会的な見 方の違いに他ならない。護送船団方式の名残なのだろうか……。
 A   
 人パッカーたちとともに、『小社会』を築く機会が、旅の中でしばしば訪れる。タジキス タンのパミール高地を旅したときの話をしたい。
 
  パミール高地は、国土の9割以上を山岳が占めるタジキスタンの、東部にある。シルクロ ードに沿って中国から内陸へ走る、天山山脈や崑崙山脈などからなる高山地帯の一地方 で、『アジアの屋根』などとうたわれる天下の険だ。
 
 旧ソ連時代、かつてこの地域は地の利を生かした国防の要所とされ、いまなお中国やアフ ガニスタンの国境沿いには地雷が残される。独立から時を経て落ち着きを取り戻し、いまや 外国人旅行者への門扉も広がりつつある。

 パミールには谷合ごとに集落が存在し、険しい自然環境の中で少数民族たちが伝統的な 生活を送る。天嶮の美とグローバル化の及ばぬ独自の文化に触れられるロストワールド。非 日常を重視するオレの旅で、行かない法はなかった。

 パミールへの道は険しい。公共の交通機関はなく、往来する車両も数少ない。ここからが 旅人としての腕の見せ所である。情報収集の結果、オレは白人パッカーのグループとジープ を共同チャーターすることになった。白人パッカーは、30代後半のカナダ人夫婦と20代後半 のオーストラリア人カップルである。そこに日本人のひとり旅のオレが加えられて5人でジー プをシェアする格好だ。
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 「ぇ、タバコは車中で吸わないほうがみんなの健康に良いと思うの。」と、非日常から 日常に引きずり戻すのは、クリスの提案だった。
 
 オレはジープの助手席に座り、窓から腕を出してタバコをふかしていた。おしかりを受けそ うだが、ここタジクという郷では、窓をから腕を出しているだけマシである。とは言え、ジープ 内の郷はすでに先進諸国だったらしい。

 クリスは29歳のフランス系オーストラリア人。建築デザイナーの仕事を退職して年下の婚 約者パットとユーラシア横断の旅に出た。パットは25歳の建築士で、イタリア系オーストラリ ア人だ。彼女に合わせて自らも退職し、少し早いハネムーンを楽しんでいる。帰国後の再就 職のあてはないが、本人いわく、金融トレーダーになろうかと考えている。
 
 2人とも柔軟で明るい性格で親しみやすく、感じの良いカップルだった。自然が好きで、キ ャンプ道具一式を巨大なバックパックに積んでいた。彼女たちの旅の目的は、アジアの自然 を満喫することだそうだ。
 
 タバコについては、ローラにも注意を受けた。
 
 民家の軒先で吸いがらの捨て場に困ったオレは、一緒にタバコをふかしていた主人にゴミ 捨て場を訪ねた。すると主人は自分の吸い殻をぽいと自分の家の軒先に投げ捨て、オレに 指で指示したのだった。
 
 ローラは軒先に散らばるタバコの吸い殻のうち、オレの吸っていた銘柄をつまみあげ、「わ たしたちと行動を一緒にする間は、わたしたちの基準を作りましょう?お願い。」と言った。オ レは彼女から吸い殻を受け取ると、笑顔で玄関の生ごみ置き場に捨てて見せた。「サンキュ ーソーマッチ、ユーアーグッドガイ」と、ローラ。
 
 彼女は37歳のカナダ人である。小学校の教諭をしており、今回は1か月の余暇でタジキ スタンの山登りを夫と楽しみに来ていた。夫のタックは寡黙で感情をあまり外に出さない39 歳のオランダ系カナダ人だ。決してネクラというわけではなく、好奇心や行動力は人一倍あっ た。
 
 彼らはとても落ち着いた雰囲気を持っていて、一見理性的で固いように見えるが、噛んで 含むように話す様はまさに教師といった感じだった。本格的なアルピニストで、丈夫なシュー ズやストックなど、山登り用の機材が彼らの荷物の大半を占めていた。

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 宿の宿代や民芸品の値段交渉における、彼らのアプローチの仕方は特徴的だった。 提示された値段を聞き、相手を目の前にしたまま十分に時間をとって熟考する。やがて相手 の目を見据え、自分の提案する値段をダイレクトに伝える。
 
 その値段はだいたい言い値の6割から7割ほど。無理な値引きはしない。そして、一度自 分の提示した値段は、釣り上げもしないし引き下げもしない。ただ相手の回答を黙って待っ た。相手が値段を提示しないこともある。ときおり、オレから見て現地の価格水準からかけ離 れた高い金額を自ら提示することもあるけれど、彼らにとっては相場はともかく、自分が良い と思った値段を素直に伝えていた。つまり、彼らは時価算定が得意なのだ。

 交渉の間は表情をあまり変えない。そして、双方の折り合いがついたら握手をして交渉は 終了する。短時間で話をまとめ、お互いにうらみっこなし。対等な交渉だった。
 
 こういう取引を目の当たりにすると、日本人は交渉が下手なのだろうと思う。ニヤニヤへりく だってお願いし、ときに無茶な理屈や因縁をつけたりする。情に訴えるのが効果的なケース や、やりとりそのものが楽しいケースを除けば、あまり効率は良くない。
 
 物と物の等価交換で、商品は目に見えているのに、時価算定ができない。双方対等な関 係を築くのも下手なようだ。これを「気が弱い」で、片づけてよいものだろうか。
 
 交渉しかり、今後のルートの相談しかり。オレはあまり彼らとの会話に参加できずにいた。 彼らの母国語は英語だ。オレは英語が得意ではないので、どうしても意思の疎通がスムー ズにいかない。そうしたオレの消極的に見える態度にやきもきしていたのが、ローラである。 彼女は慰めるようにしてオレをミーティングに誘導しようとした。

 「英語が苦手なのはわかるわ。でも、同じ人間で仲間だから、考えることはきっと同じこと なの。わたしたちはあなたの意見を無視できないし、知りたい。分かりやすい単語を使うか ら、あなたも頑張って意見を言ってね。」
 
 それからオレは意見を言うようにした。結論は余り変わらず、かえってミーティング時間を浪 費する。それでもローラのモヤモヤは改善したらしく、ミーティング後にウィンクなどをしてくれ た。オレはこれまでも言葉によらない意見表明をしていたつもりなのだが、そのやり方は少 なくともローラには伝わっていなかったようだ。
 
 『言葉が違っても人間は同じ』、とは思わない。言葉が違えば感性が違う。たとえば口に出 さない意思表示は日本語特有の曖昧さに隠された意思表明にも通じるものがある。観光で 現地の人と雑談する程度の人間関係なら、感性の違いは問題にならない。しかし、組織的、 社会的な人間関係では、感性の違いを見過ごすことができない。
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 レは当初、彼らとのやり取りの中で、卑屈な気持ちを抱くことがしばしばあった。たいて い彼らの成熟した理性に触れる時だろう。ときに彼らの視線が、上からの目線のように感じ られた。ビジネスライクで冷たい印象を感じることもあった。

 だが、日数を重ねるごと、徐々にわかってきたことは、彼らは彼らなりにオレという人間を対 等に見ているということだった。対等たることを前提として誰に対しても呼びかけているように 見えた。別に見下してはいなかった。
 
 朝から就寝時までみっちり共同生活である。窓の外には荒涼とした山岳地帯が広がり、集 落に到着してもライフラインは全くない。僻地で広げられた乗合ジープという名の小社会の構 成員のキャラクターは直接的で濃厚で、あまりに生身に近かった。

 非日常の中で感じる日常の気付き。何を思ってどう生かすかは、感じた人次第なのだろ う。だけど、このパミールの旅でオレの感じるところは、とても多かったので、今回の話で紹 介したいと思った次第である。
第一話 こんなところで欧米か!@
 
 
 
 
 
バックパッカーとはリュックサック(バックパック)を背負 った個人の自由旅行者。団体ツアー旅行は、日本、フラ ンス、中国などが多い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
パッカーとはバックパッカーの略。
 
 
日本においてバックパッカーは、貧乏旅行者だと思われ がち。実際日本のバックパッカーは過度に節約する傾 向があり、不潔な者も多い。
 
著者は『日本人宿』に、広義に日本人がよく集まる宿を 含めている。
 
 
 
 
 
自転車に装備一式をくくりつけて旅行する人のことをチ ャリダーと言う。ランドナーとも。
トレッカーとは登山やハイキングなどのトレッキングを楽 しむ人。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第一話 こんなところで欧米か!A
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第一話 こんなところで欧米か!B
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルピニストとは本格登山を楽しむ人。
 
 
 
 
 
 
 
 
第一話 こんなところで欧米か!C
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第一話 こんなところで欧米か!D
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第二話 山岳ペルシャとインド
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 ルクロード。

 漠然と言われてイメージするものは何か。長い一筋の陸路をたどる文化圏である。すぐ隣 のアジアのお話。にもかかわらず、われわれ日本人の想像するシルクロードは、おとぎ話に も似ていてリアリズムに欠ける。

 たとえば井上靖の小説『敦煌』、久保田早紀の歌謡『異邦人』、イスラムモスクの立ち並ぶ エキゾチックな『イスタンブール』。これらに代表されるイメージに他ならない。まま、日常生活 にはなんら支障をきたさない。につけても、日本で生活していると、どうも外の世界のリアリ ズムが希薄化してしまうように感じるのはオレだけであろうか。

 今回の長旅でオレがたどっているシルクロードとは、どんなところか。そしていま、オレが (エッセイの舞台として)身を置くパミール高地とはどんなところか。簡単に説明しても、悪く はなかろう。
 
 今回はつまらない話かもしれないけれど、ちょっと聞いてもらいたい。

 A   
 シルクロードの解釈は多々あるが、もっともイメージしやすいのは、中国の帝都『長安(現 在のシーアン)』から、欧州とアジアのかけ橋『コンスタンティノープル(現在のイスタンブー ル)』までの交易ルートだろう。
 
 一本道が伸びているわけではない。文化圏を道に喩えてこう呼ぶのだ。

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 交易の目玉はシルク。伴って、多くの文化がこの道を往来した。食事・芸術・音楽しかり、 技術・産業しかり、もちろん民族や言語も。それらの根底にあるものは世界最大規模の宗教 『イスラム教』である。実際にシルクロードをたどってみて、この道をして『イスラミックロード』 と言わしめることになんら抵抗を感じない。
 
 オレは道程を、『大陸』、『中央アジア』、『世界交差点』の3つに区分した。
 
 『大陸』は、中国西部タクラマカン砂漠に代表される灼熱の内陸気候の地域だ。敦煌やト ルファンはこの地域にある。ラクダと隊商、仏教寺院とイスラム寺院、そして西遊記。回族や ウイグル人が文化を築く。ウイグル人は中央アジアのウズベク人とルーツを同じくする人々 だ。エキゾチックな顔立ちで、のっぺり顔の漢人とは異なる。

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 中央アジアは、旧ソ連から独立した国々(通称5スタン)をさす。北部の草原はモンゴルの イメージに近く、のっぺり顔の人々が移動住居に住んでいた。中西部の砂漠地帯は、バザー ルの喧騒やモスクの祝詞でにぎわい、いずれもトルコ系遊牧民をルーツとする。いっぽう、山 脈に隔たれた東南部の高山地帯はペルシャ系遊牧民をルーツとし、彫りが深く毛深い人々 が多い。

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 最後の区分、世界交差点で発祥したトルコ文明とペルシャ文明は、アメリカを除くすべての 大陸の文化を取り巻いた。トルコやイランの立地はまさに交差点とも言えよう。いずれも史上 幾度となく世界の中心となった土地である。

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 いま、オレが旅するパミール高地は、中央アジア南部の山岳地帯で、ペルシャ文明をルー ツとする地域だ。この流れは北の大山脈に沿ってこのまま東へ渡り、アフガニスタン、パキス タンを経てインドにいたる。
 
 シルクロードの起点をインドとする考えもある。確かにインドは香辛料や産品など物資が豊 富だ。そういう意味で、このパミールもシルクロードに含めて良いだろう。

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  B  
 立地の条件により、この辺りの食文化は中央アジアのどの地域にまして貧しい。また、芸 術や技術もぱっとしない。なにせ何もないのだ。木もなければ水もない。鉱物もなければ動 物もいない。いまだにライフラインは整わず、集落でたまに見かける手動ポンプ井戸は、日本 政府の援助によって建築されたものである。


 パミールの旅では、わずかな謝礼(1千円程度)を支払って、民泊することが多い。民泊は 発展途上国に見られる物々交換としてのホテル役務とは違い、『おもてなし』を存分に受け ることができる。その土地の人々と触れ合うにはうってつけだった。

 パミールハイウェイにあるブルンクール集落の話だ。旅行者が到着したら、彼らはお茶と菓 子で迎え、夕食をふるまう。そして一息ついたら親族が居間に集まり、お話をしたり、音楽ビ デオの放映をしたりして客をもてなす。電気がない地域だ。客のために若い衆が軒先で発電 機を回す。集落で珍しく煌々と電球が灯るのだから、近所の無関係な人も、久しぶりの音楽 ビデオを見に集まってくる。
 
  このパミールの地では、インド文化が人気だ。かつて日本でも『踊るマハラジャ』なる映画 が流行したように、インドの歌謡舞踏はパミールで大衆の心をつかんだ。音楽ビデオはもち ろん、インドの歌舞エンタテイメントである。女たちはかいがいしくお茶を汲んだり子どもを遠 ざけたり、客の寝室を調えたりしている。男たちは「インドスキー、ハラショーダ(やっぱり、イ ンド風はイカすだろう)?」などと言った。
 
 夜も更け、寝室に行くとド派手な布団が客人のために敷かれており、壁にはインド歌謡スタ ーのポスターがデカデカと張られていた。


   C 
  山脈に阻まれ、渓谷沿いに流入する物資や文化と言えば、南アジアからかろうじてやっ てくるものだったのだろう。
 
 谷や丘などのいたるところに仏教遺跡が点在しているのだ。その多くはイスラム教の排他 主義に噛みつかれ崩壊し、現在イスラム一色に染め上げられているが、かつては異教徒と して仏教が定着していた節が垣間見れるのだ。
 
 タジキスタンの首都ドゥシャンベの博物館では、中央アジア最大級ともいわれる涅槃像が 展示されている。それ以外にも、東南アジアの匂いのする宗教美術品が多くのこされている のだ。

 イスラム教が遊牧民によって中央アジアに広がったのは10世紀前後のこと。それ以前は 土着の信仰や文化があったのだが、ここ、タジキスタンはインドなど南アジア文化の影響を 受け、システマチックな宗教があったことがうかがえる。すなわち仏教だ。
 
 そして、仏教はイスラム教に塗り替えられた。

    D
 旧ソ連から独立した5スタン諸国の中で、タジクは異色を放つ。まず、他の国々に比較して 抜群に貧しい。また国土の9割以上が山岳地帯であり土地の生産性が低い。物流も悪く、 封鎖環境にあると言えよう。
 
 国民1人あたりの年間のもうけは2万円に足らないという。それに対して都市部の安食堂 での1食は200円程度。タジク政府の統計に含まれない自給自足の人々が、パミールには 多く存在するから、総平均で豊かさを数値化することはできない。だが、少なくとも数字では 上記のようにあらわされる。
 
 パミールに暮らす人々にとっては、我々が思い描く未来も近代も想像に及ばない。そんな 余裕(余地と言うのが良いかもしれない)は生活にない。ここを訪れると、なんだかマジックミ ラーで彼らの文化をのぞき見ているような錯覚を感じる。

 それでも中国人労働力を招致して、パミール高地とタジクの西部の都市を結ぶ幹線道路 は徐々に整備されてきた。今日、パミールのバスターミナルからは、都市に向けて険しい道 を行くマルシュルートカが5台ほど出発した。
 
 オレの乗ったマルシュルートカは、10時に客がそろった。病気の子供を伴った婦人、学校 に向かう少年、親戚を頼って働き口を探す少女、新婚旅行の夫婦、出稼ぎ労働者……。大 きな故障やパンクがなければ到着予定は深夜の12時だ。
 
 アスファルトはない。寒暖の差は激しく、砂埃が舞う。いつガケ崩れが起こるともしれない。 マルシュルートカは激しくバウンドし、すし詰めの乗客たちの頭を天井に打ち付け、ひた走 る。
 
 オレは、多くの想いとともに、荷台に乗せられて乗せて首都ドゥシャンベを目指した。

第二話 山岳ペルシャとインド@
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
井上靖:敦煌は西域小説の傑作とされ、敦煌市の世界 遺産に登録される石窟寺院『莫高窟』から出土した古文 書をテーマとしている。
久保田早紀:異邦人はシルクロードをエキゾチックにイメ ージして作曲されたCMソング。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第二話 山岳ペルシャとインドA
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5スタンは、カザフスタン・キルギスタン・ウズベキスタ ン・トルクメニスタン・タジキスタン。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たとえばトルコのビザンティン帝国(ローマ文明)やイラ ンのアケメネス朝(ペルシャ文明)など。また、エジプト のアレキサンダー大王とペルシャのダレイオス大王の 世界大戦も有名。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第二話 山岳ペルシャとインドB
 
 
ライフラインとは、電気ガス水道をさす。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
パミールも旧ソ連の一部であるため、族際語としてロシ ア語を話す人は多い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第二話 山岳ペルシャとインドC
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第二話 山岳ペルシャとインドD
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マルシュルートカは乗合バンのこと。中央アジアのロシ ア語圏ではたいていこう呼ぶ。
 
 
実際に到着したのは深夜2時半。
 
 
 
 
 
 
 
 
第三話 おもてなし
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 「子どものいる食堂は、ウマいんだよ。」
 
 そう、いつになく自信ありげに持論を披露したのは、オレの大学時代からの友人トモヒコ だ。まだオレがサラリーマンをしていた2年前、長期休暇のタイミングを合わせて2人で周遊 した南インドで、安食堂を探していたときの発言である。
 
 その後気付いたことであるが、子どものいる食堂は家族経営であることが多く、家族として 客人をもてなす真心が、図らずともビジネスににじむことが多い。すなわち、「より喜んでもら いたい、おいしいものを出してあげたい」、という『おもてなし』である。
 
 さて。
 
 オレはいま、タジキスタンの東部にある『パミール高原』を旅している。中国西部の崑崙山 脈や天山山脈、チベット高原などに端を発するアジアの屋根は、いまなお近代化が遅れて いる。ライフラインもろくに整わなずホテルすらないこの地域での宿泊は、民泊によることがと ても多かった。
 
 民泊とは、民家の扉を叩いて一宿一飯をねだり、代わりにお心付けを置くという、ある種の ビジネススタイルである。こうした交通の便の悪い地域では旅人の民泊は普通で、相場もだ いたい1泊2食付きで15ドルから20ドルほどに落ち着いている。
 
 民泊では、地元民の温かなおもてなしを受けることができたのだ。
 
 パミールへの国境で思わぬ足止めを食らってしまった。到着したのは午後8時。検問でオ レたちの乗ったジープを停車させたまま、兵隊たちは見張り1人を残してドラム缶型の基地 に入ってしまった。夕食の時間らしい。
 
 国境は峠にあり、やがて日は完全に山肌に隠れてしまう。すると、乾燥した高原の風が間 もなく凶器に変わった。ここの標高は3500メートルを超えている。エンジンを止めたジープ 車内は、吐息が凍りつくほどに冷え込んでいった。
 
 モモヒキは、固く結ばれた荷物の一番奥にある。あと少し、と何度思ったことだろう。実際 は小1時間ほどだったのだろうけれど、オレにはそれ以上の長い時間に感じられたものだ。
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 カラコル湖畔の集落に到着したのは夜9時だ。この集落がオレの民泊初体験である。主人 とおかみさんは、夜遅くに到着したわれわれのため、粗末ながら夕食を準備してくれた。チャ ータージープの相乗りメンバーは、運転手も一緒にヘトヘトに疲れきって、黙って食事を口に 運んでいた。その間、奥さんが客間にせっせと布団を敷いていた。
 
 パミールの民家は玄関で靴を脱ぎ、布団を敷いて眠るという古い日本平屋に近い雰囲気 である。こうしたスタイルに慣れていないオーストラリア人とカナダ人の相乗りメンバーたちは 戸惑いを見せていた。布団の上にキャンプ用のシートと寝袋を重ねている。
 
 ある夜、オレは家の主人に頼んで屋上に上らせてもらい、30分ほど夜景の撮影をした。パ ミールの星空は大地に近く、天の川が裸眼でも手に取るように近くに見えた。
 
 「ここはもろいから、絶対に乗っちゃいけないよ。」と、家の息子は屋上までついてきて教え てくれた。30分ほどの撮影を終え、団らん中の家族に一礼し撮影した写真を見せた。「あり がとう、とても素敵な時間がすごせました。」すると家族はイスラム式に胸に手をあて「ヴィト ージェスパシーバ(こちらこそあなたに感謝します)」と、口をそろえて言った。
 
 「貴方達の訪れは、わたしたちの幸運です。道中平安を……。」
 
 次の集落ブルンクールに行く途中、パミールハイウェイ沿いに魚レストランがあるという。こ の辺りには泉がわき、少し泥臭い川魚が良く取れる。中国からの物資を運ぶトラック運転手 たちは決まってこの付近で食事を摂るのだそうだ。しかし、言ってみればなんてことはない。 5、6件ほどの小さな泉沿いの集落に一軒「魚庄」と壁に書かれた民家があるだけだ。名産 には目のない旅行者である。ジープのメンバーでそこに行き食事をとることにした。
 
 が。準備までに1時間待たされることに。
 
 メンバーは魚を食べ慣れた日本人のオレをお手本に、ヒレをかじり、骨をしゃぶりきれいに 魚をたいらげた。この先は商店も何もない荒野を行く。次の目的地の集落にたどりつく予定 すらたてられないオレたちは、たちまち手持ちの食糧の少なさに不安な気持ちを抱き始めて いた。だから、みんな魚屋で提供されたナンをポケットに詰め込もうか悩みつつも、できるだ けおなかいっぱいに食べるという苦肉の策に走っている。
 
 こうした感覚は、欧米人であれ日本人であれ老若男女共通の感覚なのかもしれない。オレ は素直に魚屋のおかみさんに、「残ったナンを持ちかえっても良い?」と聞いた。するとおか みさんは、思いのほか気持ち良く新品のナンを2枚ほどビニールに詰めて「道中のおともに ……」と、持たせてくれたのだった。
 
 次の街のブルンクールに到着したのは夜の11を過ぎたころだろうか。すでに一面は真っ暗 で、民家から辛うじてろうそくの明かりがもれるのが確認される。ジープが訪れると、家族総 出で出迎え、静まり返った集落がにわかに活気づいた。
 
 いままでどこに潜んでいたのだろうかと思われる人々が、オレらのお世話になる民家の居 間に集結する。若者たちがガソリンの発電機をけたたましく稼働させ、やがてその民家の窓 がオレンジ色の裸電球の光をもれ始めた。
 
 女性たちはせかせかと水を汲み、茶を沸かし、ありったけのクッキーや飴と一緒でもてな す。男たちはうるさいくらいに質問を投げかけ、ご自慢の流行インド歌舞DVDを再生させた。 集落の人々はオレンジ色の温かい光に誘われて、また、陽気で華やかなインド歌舞の爆音 に釣られて勝手に民家に集まってくる。ふと、窓の外をのぞくと、入れ替わり立ち替わりに家 の中をのぞく人々の顔が暗闇にぬぅっと浮かんだ。
 
 ジープ運転手のイブライームは何やら熱心に民家の外でジープに細工をしていた。辺りは 真っ暗で、高山の冷酷な風がひび割れの手先にしみわたってくる。
 
 「こうやって…、ガソリンを抜いて…、荷台に詰めて…、カギをかける!」
 「え?」
 「ケイ……、ここはタジキスタンだ。彼らは発電機でガソリンを使っているだろう?ほっておく と、燃料タンクから抜かれるからな。彼らを疑うわけではないが、そういうもんなんだ。」
 
 家に戻ると、クリスがオレに「折りヅルの折り方を教えてほしい」と、言ってきた。そうか。ク リスはむかし短期ホームステイで来日したことがあり、そのときに折り紙を知ったという。紙 はどこにでもある。あぁ、折り紙の本でも、持ってくればよかったなぁ……。
 
 グルペペという老婦人がこの家の長老として客人にあたっていた。そのほかに、息子たち の嫁と見られる女性が数名おり、入れ替わり立ち替わり食事の準備や水くみなどを行ってい たが客人たちとはほとんど口を利かない。仕事を終えると隣の自分の家に子どもたちと一緒 に引き上げて行った。もっぱらグルペペ婦人の手足となっていたのは、未婚とみられる20歳 のサウサンという若い女だった。彼女の家は、ここである。朝から晩までつきっきりで客人た ちの世話をしていた。
 
 グルペペ以外の女性は全員布で顔を蔽い隠し、目だけ出している。サウサンもまた然りで あったが、ときおり布を取り、あどけなさを残しながらも色気を呈し始めた紅顔を、人知れずさ らしていた。独身女性は、わりと軽いようだ。
 
 2日目の夜、例によって客人たちの寝床を忙しそうに調えているサウサンは、オレの顔を見 るや否や、「ねぇ、あんたの名まえ、ケイ、だったよね?」と、ぶっきらぼうに問うてきた。「う ん、そうだよ。キミはサウサンだね。」と返したら、目でチラと
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第三話 おもてなし@
 
 

トモヒコはいつも頼りなく、自己主張をあまりしない(実 際はしているのだが弱いため、周囲に一笑のもと一蹴さ れる)男であるが、たまにこうした自信満々な発言をす る。聞いたときはいつものノリで「は?意味わかんねー よっ!」などと小バカにしていたのだが、少なくとも南イ ンドの旅行中では、持論が立証された。確かに、ハズレ が少ない。
 
 
 
 
 
第三話 おもてなしA
第三話 おもてなしB
第三話 おもてなしC
第三話 おもてなしD
 
 
 
 
 
 
紀行エッセイ「バスターミナル」