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「では…。」
軽く黙とうをささげおわると、オレはバンダナ代わりに頭に巻いた手拭いをサッと取り、バサ
バサの髪をかきあげて踏み出した。
オレにとっては初めてのイスラム体験だ。ここがカザフスタンの聖地ヤサウィ廟、世界遺産
にも登録されているイスラム神秘教派の聖人のお墓である。
現役の宗教施設は人を真摯な気持ちにさせる。観光用に一般公開されてはいるけれど、
巡礼者はいる。他人の真面目な生活の営みにお邪魔するわけだし、緊張する。
町で見るよりもおごそかな顔付きの人々。オレの前を歩く男性が、イスラム帽をかぶりなお
した。入口付近には白装束の巡礼ツアー団体が記念撮影をしている。
だけど、入場するのにちょっとした覚悟が要ったのは、真摯な気持ちになったからだけじゃ
なかった。
「これが、イスラム世界…、なのか?」
圧力、そして畏怖。
幾何学模様とアーチ形、ドーム型による徹底した空間の創造は、イスラム教ならではであ
る。この空間デザインに感じ取れるコンセプトは、理屈のいらない服従、そして圧し掛かるよ
うな圧力。
なんてことはない。あるのはイメージ通りの空間と模様だけ。そこに、何も見えない。見え
ないのだが、確かにオレは、この空間の圧力の源を感じていた。
戒律やしきたりを重んじ、徹底的に対抗馬を排除する。思考停止をもいとわない強烈にア
グレッシブなストーリー仕立て。頭を使わなくて良いなら、楽だ。人は楽な方に流れる。盲目
的でさえある潜在意識への哲学の植え付け。
「どうしてそういう決まりなんですか?」
「理由も何もない。コーラン(聖典)にそう書いてあるのだ。」
「どうしてそういうことがコーランに書いてあるんですか?」
「アッラーの御心のままだ。」
「アッラーはどんな神様ですか?」
「アッラーは見えない。だが確かにおわす。」
目に見えない空間の圧力は、イスラム教の性格を如実に表しているようだった。
■ A ■ ■ ■
人は、知恵を付けたがゆえ、良心と本能に生じうるギャップに葛藤する。
頭の良い哲学者がいた。迷える仔羊の苦しみを救うべく、哲学にわかりやすいおとぎ話を
付け説いた。イスラム教に限ったことではなく、これが、宗教の正体だろう。
宗教は、その依存性がゆえに悪用されることも多かった。思想が解放された現代において
『宗教的』と言えば、ウサン臭さの形容詞のようにもとられがちなのはそうした背景からなの
だと思う。
で、宗教ストーリーは大雑把に、生前・現世・死後の3つに区別できる。生前も死後も、誰も
知りはしないからストーリーはいろいろだ。どこから来たかを示して現世の善行を義務化し、
どこへ行くかを示して現世の善行を煽る。
かといってオレは宗教を軽んじないし、無神論者でもない。形を変えた哲学の追及であれ
ば、信仰心は正義だ。思考のストップといえども、危うさを差し引いてなお公共多数の福祉
が得られるのであれば、良い。
宗教はまた、生活に結びつき発展に寄与する。宗教は生きる苦しみからの解放が目的な
のだから、生活に密着していなければむしろ不自然なのである。
信仰が根付いた町のモスクの大多数は信仰心の履行のための事務所である。いうなれば
『神社の横の集会所』のイメージだ。
だから、宗教施設が必ずしも芸術的で美しいとは限らない。カザフやキルギスでオレが訪
れたモスクにはたいてい、昼寝をするオヤジや仕事の休憩時間に祈るサラリーマンがうろう
ろしていた。
アザーンがなった。一日5回の生活の音。
どこからともなく人が集まり、法衣をまとった僧を筆頭に祈りの儀式が始まった。オレは、た
だ後ろのほうで姿勢をただし、この儀式を見守るだけなのである。
■ ■ B ■ ■
宗教に興味を持ったのは、南米エクアドルの首都キトの歴史的な旧市街を訪れてから
だ。初めて宗教が生活の営みであることを、実感したのである。この実感は、宗教が生活に
密着していない日本人のオレにとって、大きいものだった。
キリスト教は日本人にとっても、割と身近だ。信仰心なんかなくとも純粋に楽しめるストーリ
ーと、わかりやすい芸術は、エンタテイメント性に富んでいた。
そんな物見遊山の軽い気持ちで訪れたオレの軽率さをことごとく打ちのめしたたのが、エク
アドルでの経験なのである。そこでは、民族衣装のアンデス原住民たちが嗚咽し、神父の話
に涙ながら耳を傾けている様子だった。
オレにとって南米のキリスト教会は、『生々しい』ものであった。
写真提供:Peusho
木像や装飾物、建物の柱の一つ一つが赤・茶・黒色で統一されており、これらのコントラス
トに金の装飾が怪しく光り、血と生と死を連想させる。また、手垢でくすんだ建具や壁は、信
仰心と生活の営みの生々しさが染み込んでいるようにさえ思えた。
生きている宗教建築には、特有の『オーラ』というものがあるのだ。
それ以来、宗教建築の訪問はオレの旅において外せないものとなった。散歩に疲れると良
く宗教施設で休憩する。黙想をし、雰囲気を感じ、疲れた足を休めるには、静かな宗教施設
がうってつけなのである。
生活の営みに使われているいわゆる公民館だから、ちゅうちょは要らない。異教徒の侵入
を嫌うものもたまにはあるし、もちろん、珍しい外国人の存在に気をとめる人もいるだろうけれ
ど、まずは恐れずにお邪魔すると良い。
真摯な気持ちを忘れずに黙想しているだけなら、それぞれがみんな自由に祈ったり十字を
切ったりして何事もなかったかのように生活の営みが繰り広げられていくのだ。
■ ■ ■ C ■
ところで、カザフやキルギスは、旧ソ連の中央アジア5スタン諸国のなかでも、とりわけ
ロシア化が進んだ国である。だから、ロシア的な都市部においてはロシア正教会がイスラム
教のモスクと併存している。
正教会はキリスト教の一派で南米のカトリックとは宗派が違うから、もちろん様式や雰囲気
も違うだろう。そのうえで、ロシア正教会の感想を述べてみる。
初めてロシア正教会を訪れたのは、カザフだった。
それはまるで生々しさを感じないおもちゃの建物のような雰囲気である。しかしながら、さ
わやかな、確固たる、神々の聖なる世界が建築に展開されていた。きっと誰が見ても嫌悪
感を感じることはないのだろう。
その表現されたる世界が、外から心に浸入してくるあたりは、カトリックとも通ずるキリスト
教らしさがあった。世界観が内面より湧き起こる仏教的な感覚とは違うようだ。
内部には、結婚式のチャペルにみられるような長椅子は並んでいない。体育館みたいに広
い箱型の空間があって、壁際につつましく木のイスが立てかけてあるだけだった。像なども
あまり見られず、すっきりしている。
壁は白で統一されており、天井や柱のグラデーションに淡い青色が使われる。きっと青空
を表現しているのだろう。天井には羽の生えた天使の絵画が雲と一緒に描かれていた。そし
て、建具や祭壇などの装飾は、透き通るような金色だった。
あぁ、金という色。同じ金でも南米のカトリックとロシア正教とはこうまでも違うコーディネート
になるものなのか。世情と交われば俗のシンボルになるのに、清楚と交われば無垢のシン
ボルになるなんて…。
描かれた聖者や大天使が、壁面や額に現れる。立体でないだけで威圧感や圧迫感はほ
とんど感じられなくなるのだ。ただ、彼らの鋭く優しい瞳はオレを見透かすように、絶えずこち
らに向けられている。
青、白、金の純潔なる空間に見とれていると、気付いた。ハッとするような金髪、透明な空
色の瞳、純白の肌。まるで、ロシアの少女のような…純潔さに、心の汚れが拭きとられるよ
うな感覚がわき起こる。
■ ■ ■ ■ D
地域性もまた、住む人々の生活感とともに宗教建築に染みつく。自然環境に富んだキル
ギスの渓谷地帯ではかわいいログハウスのようなキリスト教会に出会い、旅情を駆り立てら
れたものだ。
キルギスのとあるキリスト教会で、イスラム風に髪をスカーフで隠した中年女性が十字を切
り、燭台にロウソクをささげていた。ここいらでは珍しい光景ではない。
きっと、彼女にとっての日常生活スタイルは、イスラム風なのだろう。それは彼女がクリス
チャンであろうと、なかろうと、だ。
オレは、ギャップを感じた。ここまで違う宗教の共存に違和感を感じたのである。
この国の近代化がロシアによってもたらされた。ロシア文化の一部として、ロシア正教も中
央アジアにおいてはロシア系移民とともに受け入れられたのである。
キリスト教徒がイスラム教徒を暴力的に排除しようとした話は聞かない。要は、柔軟な方
が、この国々の近代史においては優位だったってことか…。
そう考えてみると、灼熱の草原地帯で馬を、鳶を駆り羊を追う人々の文化にあって、金髪
色白ブルーリィアイズって言うのもなんとも不思議な感覚だなぁ。
なお、どうでもいいけれど、オレは柏手も打たないような軽い神道イストである。実は、これ
に仏教テイストが加われば、典型的な日本人の宗教観念とまったく同じになる。日本は古来
より宗教と生活が密接にかかわらなくても、その戦乱の伝統の中で道徳観念が身に付いて
きた老国家なのだ。仕方なかろう。
でも、宗教に興味を持って海外旅行をすると、新しい気付きや、深い異文化コミュニケーシ
ョンに出会えること請け合い。オレ流のとっておきの旅の楽しみ方なのだ。
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